ヒッチコックは視線の動きを観客の心理と同化させる為に、空間をいくつも分解し、その中で男女の同じ構図による反復や、移動カメラの縦移動(ドーリーやクレーンによる遠近 地理的配置説明描写)と左右(カメラの固定による心理的描写)の間に、役者の生っぽい顔つきを巧みに物語に誘導する。
ベェンダースにおいては、それが鏡の反射と透明感の2面性を利用する事。エリックロメールにおいては、偶然と策略。ホークスにおいては重力と個体の摩擦(適度な摩擦が加わる事で断片的な時間の記録ーカットの集積がよりパワフルに大きな虚構(フィクション)を真実らしく物語るウネリを加速させる)。内と外を隔てる壁の溶解なのだ。
つまり、蓮實重彦によるショットに酔う。という映画鑑賞の意味は、このいくつものショット(固定カメラによる一連の動き)のいくつもの塊の連続を繋ぐモンタージュ(一連の動きのシステム的な意味を統括するある固定化した一つの概念や1つのカメラで一回に撮影されたある結論)が、映画を物語る為に意図した結論からはみ出して 観客にその一瞬の一連の動作を記憶し物語の枠を超えて陶酔できるか?みたいな瞬間を自分自身が発見出来るのか?という事。らしいのだが、今のところ 自分にはそのような瞬間は降りてきていないようだ。