今までショットとかカットとかモンタージュとかカメラが何処にあるか?とか、そういうプロが気にする視点を自分のような洞察力の鈍い素人が学ぶ事で鑑賞が楽しくなるとも思えず 特に気にしないできたが、濱口竜介の本のハーワードホークスのページを読んで、改めて 赤ちゃん教育を観直しながら、ショット(1つのカメラで撮影された一連の流れ)の中からカット(編集により一部の行動や運動を意図的に切り取った映画の最小単位)が常に全体の物語にどう影響を及ぼすのか?いちいち考えながら観ていると、毎回のカットが、随時 全体の物語の正統的なベクトルを推進するどころか、逐一 破壊しながら更新され新しい物語として補完しながら、まるで猛スピードで走るスポーツカーが壊れながら周囲に部品を撒き散らしながらその部品が瞬時に再構築され新たなスポーツカーにトランスフォームしている。という筒井康隆の小説のような破壊的な時間の流れにグルーヴ感がでている事の異常性に驚きつつ、その都度 時間のベクトルがめちゃくちゃになっていく唐突に差し込まれる爆弾事件の阿保さに大笑いしてしまった。
ケーリグランドはヒッチコックで断崖や汚名に出ていて、ホークスで赤ちゃん教育やモンキービジネスに出ているので、余計に2人の監督の物語の構築の仕方の違いの分析が親しみやすく出来る。無理矢理に断定的に語ってしまうと、ホークスが時間軸の流れを随時破壊しているとするならヒッチコックは空間を細かく分割する事によって随時 破壊している。その割にホークスの映画にはスピード感がありヒッチコックの映画には空間的広がりがあるような気がする。
ヒッチコックやホークスなど古典映画は、むしろ理論を素人の鑑賞者がより深く分析する事によって監督の意図した策略により より監督の意図する広がりに誘導されて詐欺師に騙されるようにハマっていける。ように作られているんだ。と濱口竜介の本を読んで今回 思い至った次第で御座います。
で、ゴダールや黒沢清は そのようなテクニックを画面上でスケルトンのように全部 提示する事で、我々 素人の鑑賞者にとって初見 難解な作品。みたいな印象になっているのではないか?とふと思ったりもした。その事を自分は90年代のトリップホップの音。みたいな感じで訳もわからずハマっていたのだな。と今回 初めて気付いた。要するに言語で言語の仕組みの理解出来ない人に画像や音のみで仕組みをしつこく説明していくと難解でお洒落な作品。みたいな印象を素人は持つのではないかな?という事。それはMacとか時計とかのスケルトンモデルを観た時に感じる印象と確かに近いと思った。
その論理でいくと、私のような極めて言語能力の低い人間が難しい概念を必死でしつこく解説する事で、客観的には難解でお洒落で都会的な作品になりはしないか?という仮説である。そのような事を考えているとたまに原宿とか青山で個展をしているめちゃくちゃお洒落な蛍光ペンとかスケルトンみたいな雀の餌みたいなサイズのイラストとかを提示しているkohaみたいな見た目のアーティストが、もし めちゃくちゃ俺みたいになんも分かってない阿保な奴だったら?みたいな事を想像すると ハーワードホークスの映画を観るようでめちゃくちゃ笑えてくるんだけど、事実は そのような難解な事を喋る阿保そうな奴っぽく見えてめちゃくちゃコミュニケーション能力のある頭の良い奴。の可能性の方が遥かに高く。本当に世の中 笑えないし世知辛いですよね?
後は来年あたり、猫の脳波を感知して作った言葉やイラストなどのAIアートTシャツみたいなのをラッパーが着るようにはなるので、そうなると、それは逆ナメンナヨ現象(猫側から人間社会の流行を仕掛けているので正解には「逆にゃめんなよ現象」だな?)になると思うし、そこまで予め時代を先読みして赤塚不二夫のニャロメTシャツとかを着ながら黄桜とかを売っておくのが良いと思う。そうすれば、黄桜の河童Tシャツとかも そのうちに値が上がってくる。のだから。
だから、どうしたんだよ!?