ホークスのhis girl friday(決戦は金曜日)は、羊達の沈黙→タクシードライバー→絞殺魔(ソーシャルネットワーク)→深夜の告白(ロストハイウェイ)→博士の異常な愛情と どんどん変化していく中で、結局 サシャギドリのデジレ。なんだと気付いた時に、米ソ冷戦構造による大国の分断統治=シェイクスピアのロミオとジュリエットも政治的な戯曲だったのかな?と思った時に、鈴木清順特集の時に最終的に夏目漱石の心の構造だったのか?と思った記憶が蘇ってきた時に ヒズガールフライデーを観る前に観た 増村保造の遊びを観ながら映画の分析も忘れてボロ泣きしながら観ていた余韻が蘇ってきた。
それと同様にエイゼンシュタインのストライキを観た時に日本の戦後史100年を観たような気分になった。みたいに このヒズガールフライデーはアメリカの異常犯罪者史100年。みたいな話がシェイクスピアのブラックユーモアに繋がっていくのは、ホークスのスクリューボールコメディを無理矢理サシャギドリに繋げてしまった事による錯覚でしかなく。
ちなみにヒズガールフライデーの主演女優の名前がモーリーなのは、エドワードヤンの恋愛時代に 繋がっていく偶然も面白いな。と思った
やはり、日本人だから日本映画がやっぱり我を忘れて画面に陶酔できるな。と思ったし、ハリウッド映画は所詮 自分にとって押し付けられたシステムでしかないんだ。と思った。