映画の話

映画 覚え書き

若林のナナメの夕暮れとピンチョンのスローラーナー

又吉のyoutube動画を観ていて、プロの文筆家の人が「又吉さんの文章が上手すぎて後半 読むのが苦しくなりましたよ」と言っているのを聴いて「嘘でしょ?めちゃくちゃサクサク読めたんだけど」と思いながらそのまま放置。しばらくして若林の「ナナメの夕暮れ」を真剣に立ち読みしていたら、若林がエモい文章を書きながら若林自身がそのエモい文体自体に冷めてきているのに、半ば惰性でエモいまま文章を締めくくったりしている。という細かい文章に実際には書かれていない心の機微まで想像するほど 自分と同一視して集中してゾーンに入った瞬間に、確かにパラパラめくって適当に拾い読みしていたのに苦しくて読めなくなってしまった。それでピンチョンのスローらーなーを立ち読みしてみると、今までピンチョンの文章が余計な気取った表現が満載で気持ち悪いな。と思っていたものが、若林が自分が自分の事を語り始めて途中で恥ずかしくなって適当に流したりチャットGTPに質問したりして終わりにしていたところを丁寧に言語化しようとしている事に気付き、初めてピンチョンの読み方が少し理解できたものの、一冊 買ってピンチョンのヘラヘラした文体の話に付き合うほどの情熱はもてなかった。

例えば、若林が、ある程度 脳科学の本を読むとあきてしまう。と書いてあるところをピンチョンは
「無知には輪郭があり一貫性があり、おそらくは運用の規則がある」と書いてあったりする。

ただ、自分も含めて おそらく若林も厳密に作家並みに文章を精査しようとすると、身体に異変が起こって色々と病院ではわからない病気になる可能性もある。そんな風にアーティストに凡人が感覚を近づけていく事による身体的代償ー(半ば迷信みたいな科学的に無根拠なもの)を信じてしまう年齢になってしまった。

そんな意味でニコラスローグは言語化出来ないところを映画化していて、ある意味病んでいるけど とても良いな。と思った。現在 ハリウッドシステムでは、このような映画作家は絶対に存在できない仕組みになっている。
だから、もしアメリカ型経済というものが無ければアーティストも健康に生活出来るものなのか?それかアーティスト自体が病んだ存在でもともと強靭な生命力を必要とされるものなのか?は僕にはわからない。

この「地球に落ちてきた男」ニコラスローグを買ってしまった為にイギリス映画にも被れてしまった。アントニオーニの砂丘黒沢清の回路の深掘りも止めて良かった。いや、むしろ、最初のcureをなんとなく買って 若林と萩原聖人。なんとなく似てる。みたいなレベルでカウンターカルチャーの分析もストップした方が良かったのかも知れない。止めるタイミングこそが節約や日本社会での生き方のセンスなのだ。

組織的CIA国家JAPANにおいて、はやく損切りする奴等ほどクールでヒップ!

若林のエッセイで始めた話も、最後にピンチョンの気持ち悪い気取ったこの言い回しで締めてみた。
如何だったでしょうか?