映画の話

映画 覚え書き

勝手に逃げろ人生

勝手に逃げろ人生でゴダールが切り取ったハリウッドのプロパガンダをルネクレールとかのサイレントとトーキーの転換期に絶頂期を迎えたフランスの映画作家としてパロディ(私は、それをフラィッシャーのその女を殺せの蓄音機のシーンを見ていてルネクレールの巴里の屋根の下を見直してみて気付いたのだが、元々この意味に気付いた発端は、蓮實重彦氏のヒッチコックの映画監督としてのアドバンテージはサイレントとトーキーとカラー日はひひひかかし、ちの3つの時代を生き抜いた事という所で、ヒッチコックの固定カメラと動くカメラの両方のショットを巧みに組み合わせる手法を分析する上で、ヒッチコックを見直していたのだが、カメラワークに固執してヒッチコックを観ていると、ヒッチコックがフラィッシャーほど機能的に技術を使用している気がせず、ただ モタモタしているように見えてイライラしてしまった。つまり、移動カメラの対象の周りをいったりきたりする目線に対して、「キョロキョロしてねえで早く対象にカメラよれや!」みたいな感じになってしまったのだが、今さっきyoutube動画でキムタクと松たか子のラブジェネを無音の状態で凝視していると、やたらにキムタクや松たか子が首を左右に動かしていて、まるでクロードミレールの生意気シャルロットの頃のシャルロットゲンズブールのような演技をしている。つまり、ハリウッド的恋愛映画において 男女の視線が合わずにアクロバティックに交錯する。が一つの物語表現だと気付きつつ、勝手に逃げろ人生に出てくる男女の顔は渇いていてとても病みつかれている。つまり、ラブジェネと勝手に逃げろ人生の画面シークエンスはほぼ同じだが、前者が互いに好意を持っているので目線を合わさないのに対して、後者は他人との会話に疲れきって目線を合わさないようにしている。こんな事を考えていると、蓮實重彦氏の言っている ゴダールはとても せっかちな人間。という意味もなんとなく腑に落ちてくる

そのような事を考えている内に、歳相応の男女の表情の演技ーという疑問が自分の中に出てしまって、気付いたらホウシャオエンの百年恋歌を買ってしまっていた。実際、ホウシャオエンの恋々風塵を見直し時、池袋ウエストゲートパークみたいなものを若者の基準値と考えた時に、とても薄味に映って退屈に思えていたのだが、仮に16歳から印刷工場とかで働きはじめた少年が観る世界はTVドラマや恋愛リアリティショーも届かない純粋な中学生のリアクションなのかな!と思うし、その時点からすでに自分はフェイクショーをリアリティだと思って生きてきたので、今こんな感じなんかなぁ。と思ったりもした。 実際、フラワーオブ上海や風櫃の少年、憂鬱な楽園は生々しさを感じて割と画面に入っていけた。

歳相応の恋愛とか勤労体験や役職というのは、その当時 体験しないと一生 理解出来ないまま、TVドラマや人から聞いた話の記憶の中を生きる事になる。その部分がアメリカの日本向けエンタメビジネスに繋がっているのかな?と思った。