映画の話

映画 覚え書き

中原昌也の生成AI プロジェクトについて

昨晩のドミューンの生成AIプロジェクトの配信をダラダラ視聴しながら、僕が20代の時 web やdtpデザイナーをしていた頃の憧れの2大スタークリエイター 中原昌也宇川直宏が未だにタッグを組んで 新たなアートを産み出そうとする姿勢に年甲斐もなく ワクワクし、それと同時に宇川直宏氏のアーティスト中原昌也に対する熱いトークに感動したりもした。

実際にAI 生成されたロボット中原昌也トークを聴きながら、ノスタルジーと共にカリスマに触れ合うみたいな精神安定剤的要素がある事に気付いたりした。正直 ある部分では全く中原氏が言わないだろう意見を言っていたが、声が完璧に中原昌也なので全く拒絶感はなかった。ある種の老人介護の現場での独居老人の悲哀を緩和させるのに、必ずしも生身の人間である必要はなくロボットでも人間の暖かみを感じるのに充分かも知れない。

 

と思ってしまった。そこの価値観をなんとなく受け入れてしまっている事への、アメリカ主導による産業広告代理店社会による家畜化を受け入れてしまったような薄ら寒さもあり、そうした意味でも、主催者の宇川直宏氏がしっかりとこのプロジェクトへの深い考察や中原昌也氏への友情をベースにして話されていた事や同時に生成AI をアダルトビデオみたいなポルノ業界。みたいな生っぽいフェイクオルガズム ビジネスみたいな感覚でも捉えていて、最近はイタリア映画から東映エロ路線映画にはまっていたせいもあり、その感覚がシンクロして大変聞き応えがあった。

つまり、クロネンバークがポルノ監督あがりで裸のランチやザ フライやjgバラードのクラッシュを撮ったが、日本でいうと石井竜也がshake hipを般若がおはよう日本やそれならいい。みたいな曲を聴いた時に、元ホスト上りのミュージシャンという事と関係があるのか?ラップやファンクという 極めてテクノロジーに支配されたサウンドでありながら時代劇風の台詞まわしに聞こえたりもする。その点がウィリアムギブソンニューロマンサーっぽいな。と感じながら、少し前から石井竜やのラジオも聴くようにしていたが、そんな意味でピースの綾部やスピードワゴン井戸田も泥臭さと軽薄さのバランスが絶妙で、やはり昭和末期から平成はグラムロック→ヘビメタ→ニューウェーブ→パンク→hip hopと変化していきましたが、ファンクデスコベーシストっぽいノリのギャル男の流れが我々冴えないサブカルおじさんのイメージするキラキラしたようではあるけれども結局我々と生活圏内の近いなんか泥臭い人。みたいなイメージの人がストリートのイケテル人。みたいな時代があったなぁ、と思ったり。

それで日曜日も色々な雑事をしながら、平子祐希氏のバレンタインデースペシャルラジオとオードリーのオールナイトニッポンを聴きながら、平子氏は良い意味で本当に気持ち悪くてギャグがダサくなってきて、いんちきベーシストっぽくなったな。と思ったりしました。酒井さんが横にいない事で、本当にアメリカのハードコアアナルポルノに出てるクリスペブラー。みたいなで汁が滲みでてきた

そんな意味で平子氏の写真集の事でネットで佐久間氏と平子氏が痴話喧嘩みたいにじゃれあっていたのも、本当に気持ち悪くて良かったし、そういう気持ち悪いコラージュ感や会話のリズム感を楽しむのが中原昌也の小説や音楽のセンスの良さに痺れ続けている人達なのかも知れない。僕は単純に今まで中原昌也の小説や音楽を額面通り聴いていて、「なんか神経を逆撫でされるような?されてすらいないような?どちらにしても、そんなに気持ち良くない」みたいな感じであまりピンときていなかった。

 

僕のような岡村靖幸とかハライチ岩井とか、はっきりとはずしたオフビートのリズムまでしか気持ちが良い。ものとしてピンとこない人は我慢して、石井竜也の江戸弁とかピース又吉のモチャモチャしたピンのフリートークみたいなの我慢して聴き続けると、不快感の先にある 少しの快感。みたいなのが見えてくるし、それが マイケルジャクソンとジャミロクワイとかプリンスとかファレルのベースのリズムの取り方を上手く文章に落としこむ方法なのかも知れない。などとも考えたり。