映画の話

映画 覚え書き

ドイツ映画祭が始まって

ドイツ映画祭が始まって、どんどんミスター慶応ロリコン宮崎勤のような思考が加速度を増している。今まで独身の中年や高齢の母親とか父親と同居 実家暮らしでもマトモな社会人の方々で社会的にそれなりの役割を立派に果たしている方々もたくさんいらっしゃいましたし、人それぞれ、まともに働いていてもそれなりに稼ぎと収入のバランスは何処かでおかしくなる場合がある訳だし僕もあまり独身である事を気にしてはいませんでしたが、結局のところ、パートナーが居ない事で発生する精神の幼稚性みたいなものとドイツ表現主義映画が合体するとめちゃくちゃ精神に破壊力ありますね。
それが裏を返せば、ハリウッドセレブパーティー文化のナチスの高官達がやってたようなお忍びの変態パーティーみたいな感じの映画に繋がってく訳で、最初は白人のセレブパーティー文化の真似してオタクの馬鹿にすんのが偉いんかよ?おめーも充分に気持ち悪いわ。早稲田卒とかの文系一流私大広告屋さんよ?みたいな感じでムカつくから、先にハリウッドセレブパーティーの元ネタのドイツ映画をこっちが先に差し押さえてやる!みたいな感じで見始めていたら、モテない人間なので単純に宮崎になってしまったというー。そういった話なんですわ。

おそらく、ああいった高学歴文系私大の方々というのは、色々とドイツ系アメリカセレブ文化知った上でhiphopやらストリートブランドやらdigってるけど宮崎勤ではありませんよ。
みたいな事に意識的なんだな。つまり、どのように話したり振る舞ったりすると人からどう映るか?上手くコミュニケーションできて収入を増やせるか?という事に普段から意識的なんすわ。
それは営業職として大事なんやろうなぁ。

といった訳で、ここから宮崎勤的なありのままのモテない独身中年のドイツ映画の見方に入ります。

やはり、1日の最期に休日の映画館で倍賞千恵子淡島千景にのめり込んでいけるのは贅沢な時間だろう。現実には、このようなレベルの女性達を間近でじっくりと見れるチャンスは、会社の接待の美人ママのいるスナックくらいでしかあり得ないし、そのような場を与えられたところで馴れ馴れしくできるようなところではないだろう。映画のみ、実現可能である。伴淳三郎に長渕の面影を見る。マキタスポーツの長渕の物真似をふとチェックし直してみたくなる。伴淳三郎中村是好対決。五所平之助の雌鶏が泣くころの時は季節工家無し土方の役だった中村是好が大会社の社長に!
血は乾いているの芳村真里。

マレーネディトリッヒじゃねえんだよ!やっぱりゴミドイツ映画をだるく何本かみて、邦画で閉める。
高級チョコレートメーカーが開発したゴミチョコのような苦い虫素材の高級ゴミチョコをたくさん食って、綺麗な邦画で閉める。ゴミチョコの余韻で倍賞千恵子の清潔感が、ガンガン効いてくる。この映画の冒頭のドイツ映画のようなミュージカル的なスピード感。ドイツゴミ映画を沢山観てから来てくださいね。という繋ぎの名目で故意に作られているような監督の裏メッセージな気さえしてくる。奇怪で曖昧な匂わせゴミ映画ばかり見ていてそのような勝手な思い込みが増していく事に精神がドイツ映画に乗っ取られはじめてるな。と感じてフイリッツラングのmに繋がっていくのがドイツ表現主義映画のゾッとするSF感だと思う。
この手法で撮られた邦画が松田優作の最も危険な遊戯だが最初見たとき、どんな映画か分からなかったし、村川透野獣死すべしなどを追っていく事で、その男凶暴につきの川上麻衣子や白竜のターミネーター化したダークナイト的キャラ設定に繋がっていく。nasのNY state of mind。ドイツ表現主義の世界観なのだ
いずれ、マレーネディトリッヒを見続けるとおばあちゃんとギャルの境界線も曖昧になっていくだろう。ギャル時代からどこかババア。婆さんになってからも少女。そんな意味で濡れた逢引と陽炎座加賀まりこを見比べるのも良いだろう。ジャンヌモローと同じ。女優 妖怪化スーパースター烈伝への道なのだ。

番匠監督にハズレなし。