映画の話

映画 覚え書き

オードリーのオールナイトニッポン

先週のオードリーのオールナイトニッポンを聴いていて、高木ブー氏による春日のレイプ事件の告白には本当に衝撃を受けた。しかも、当日、海亀の産卵のように涙を流しながら高木ブー氏の控室で一言も声を発せず歯を食いしばって春日が犯されているのを rikacoと若林が 巨人の星で電信柱の影から飛馬が親父にしごかれているのをそっと見守る姉とその下で覗いているジャリンコちえの小鉄みたいな感じで控室の扉の影から、ヒソヒソ話をしながら助けもせず、そっと覗いていた!というのである!全く 中居くんや松本人志の性加害事件など氷山の一角なのだ!
今思うと、チョコレートプラネットの竜宮城のコントもこの性被害事件を暗喩するものーだったんやなぁ...

今や、このような画像もスマホソフトに頼めばすぐAI画像にして捏造してくれるし、それをTシャツにしてメルカリなどネットですぐに販売する事も出来る。我々の学生時代 内田有紀のグラビア写真の顔の部分とSM写真集の胴体部分だけ切り貼りしてフラケンシュタイン博士の魔改造の夜!みたいな感じでライク ア マッドサイエンシスト。よろしく、まるで時代を駆け抜ける一筋のレーザー光線銃(風のことだよね?)ように最期の一滴まで完膚なきまで患部をシコり抜いた日々(さながらオナニー界隈のスペースカーボーイ小梅大夫ーライトスタッフ宇宙飛行士)をまるで昨日の事のように思い出し!改めてほんとうに今は良い時代になった...。としみじみ思うのである。

タカトシ理論

久しぶりにTVをつけたら、クリームの有田とアンガールズの田中とパンサー向井が食べ歩き番組をやっていたのだが、有田と田中のギョロ目ぶりがまったく同じ表情で脳内で有田と田中の顔がミックスされたが、最初 有田を観た時 TVが久しぶりすぎてタカトシのタカも表情が丸くなって髪の毛ボサボサで、お試しか?の頃からずっとTVで寝ないで働かされて疲れているんやなぁ。と勘違いしてしまっていた。
それで今さっき 有田とカズレーザーyoutube動画が流れてきて、カズレーザーは絶対にギョロ目をシンクロしない事で有田のギョロ目を強調させているんだと思ったし、パンサー向井は眠そうな半目のようなギョロ目のような微妙な表情で、有田と田中のギョロ目にマイルド着地してシンクロしているやな。と思った。

ロバートミッチェムのAIとしてのジェームズディーン。とアメリカの友人のデニスホッパーとオーソンウェルズのfake。そしてjayzのdead presidentと三島由紀夫

過去を逃れて。が面白かったので、天使の顔を見直すと、どの映画でもロバートミッチェムはロバートミッチェム役を演じているんだ。みたいな事に気づいて、ロバートミッチェムを観ている事自体が馬鹿馬鹿しくなっていく。のと同時に、以前ダラダラとグジュグジュした話でつまらないな。と思って映画館で観たジョンヒューストンの禁じられた情事の森がこの映画のパロディだ。という事を知る。そこでエリザベステーラーを支点にし、ジャイアンツという映画のジェームズディーンが、アンタッチャブルの山崎がデニーロを真似するみたいな感じで、ロバートミッチェムのパロディをしていたのではないか?と思いながら、(最近では、リバーフェニックスの弟がその役を演じていますね)徐々に村上春樹とチャンドラーとサリンジャー三島由紀夫中島らもアメリカハードボイルド文学史 という形で平行四辺形で繋がった時に、ハリウッド映画 風刺という形で坂口安吾の白痴と三島由紀夫金閣寺も比較しながら見直してみる。のも発見があるかな?と思った。

あと、天使の顔の主演女優 ジーンシモンズが役柄の行動パターンも見た目も、エドガーGウルマーの奇妙な女のヘディラマーにそっくりで、てっきりヘディラマーだと勘違いしていた。それで、ヘディラマーをwiki検索すると、ヴィヴィアンリーが風と共に去りぬでヘディラマーに雰囲気を似せて役作りをしていた事を知る事で、マーロンブランドとヴィヴィアンリーの欲望という名の電車がまるで天使の顔とか奇妙な女の続編であるような気分になりつつ先程のジョンヒューストンの禁じられた情事の森とジャイアンツがエリザベステイラーを支点としてマーロンブランドとジェームズディーンで繋がり、そこでマルホランドドライブを観ているような気分になりつつ段々と江戸川乱歩の鏡地獄みたいな気分になってくる。そこで初めてエドガーGウルマーの黒猫とブライアンデパルマファントムオブパラダイスが繋がってきて、江戸川乱歩の話の中にエドガーアランポーの記憶が入れ子になったような映像が見えてきた時に、ハリウッド映画というのはサマセットモーム原作 港の女 と ジョンクロフォードの雨。グロリアスワンソンを軸にして、港の女からサンセット大通りまでgothなんだ。と思った時に、結局ハリウッド=gothとしか思えなくなってしまうのだ。そこで、初めてクライブバーカーの冷たい心の谷を読んでみようかな?という気分に今 なりました。

そういった話が、深夜の告白のバーバラスタウィンウィックのレディイブのセルフオマージュ。ダウンタウンのコントのような金髪のズラーpop artのキャンベルカンなのか。と思う。

性犯罪者映画好きの手記のみで綴られるミックステープ

切ない系の性犯罪者 映画が結局一番好きなんだと自分で気付く。

パウロローシャ青い年
クシシュトク キェシロフスキ 愛に関する短いフィルム
クロードシャブロル 肉屋/牝鹿/2重の鍵
北野武 その男凶暴につき/ソナチネ

次点
ペドロアルモバル ボルベール
大島渚 戦場のメリークリスマス
マリオバーヴォ 血みどろの入江
キムギドク 悲夢/魚と寝る女

エロ将軍と21人の愛妾

ネットで中居くんや松本人志問題を必死に掘っていくと、頭の中に鈴木則文の「エロ将軍と21人の愛妾」が出来上がってくる。訳だが、この映画は多羅尾伴内が面白かっただけに、正直つまらなくて驚いてしまった。ただ、女鼠小僧のビジュアルかクノイチっぽくて、そこだけ良かった。

やっぱりお昼1時からの奥様向けメロドラマや火曜サスペンス劇場的な意味でのメディアコントロールと性犯罪者というテーマでのゴシップ記事でいうと、シャブロルが別格で、毎回 性犯罪者映画だと思ってみていると、がっつり純愛映画なのである。それでフイリッツラングのドクトルマヴゼやMを現代的にしたものがシャブロルの「童貞が純愛であるならば、いわんや性犯罪者こそ純愛である」みたいな結論が、中居正広問題から導き出される結論なのだが、中居正広ゴシップに頭が沸いている人に「結局は田中角栄ロッキード事件問題なんや!まず!シャブロルの石の微笑→肉屋→hgクルーゾーの悪魔のような女→フイリッツラングのドクトルマプゼから見直して観ろ!」と一喝しても「うわー。映画オタク 映画のタイトルばっかあげてきて映画ばっか観てて現実まったく見えてなくて、目の前の人とコミュニケーションとれない。キモチ悪〜」となってしまう訳で、一般大衆の知識レベルに合わせて芸能ゴシップはするべき!なんですよ。えっへん!えっへん!鼻 天狗っ花よりダンボだよ〜ん。

話はそれますが、過去を逃れてを観ていて クロネンバーグのヒストリーオブバイオレンスがベルイマンの不良少女モニカっぽい画面だった意味が この映画がこの2つの映画の画面の合成だから。わかりながら、途中 小津の浮草っぽいシーンも挟んだり、このジェーングリアの悪女キャラをもっとキツ目に先鋭化させたキャラがヘミングウェイ原作シオマドク監督の殺人者のエヴァガドナーを思い出すな。と思いつつ、チャンドラーとヘミングウェイが繋がったりしつつ見終わってからスパイクリーのクロッカーズを見直したくはなりました。その発想の応用系としてエロ将軍と21人の愛妾を観てて、ジャンルノアールの黄金の馬車とか内田吐夢の妖刀物語 花の吉原百人斬りのイメージとダブってきて、そのイメージの延長で中居くんゴシップも観たらエエでしょ。

中居くんとロスの山火事

ツイッターで中居くんとロスの山火事とモテるテクニックyoutuberの話ばかりが何度も流れてくる。そこで私も皆さんに子宮に直接 語りかける話術を身につけるべき!なんだと強烈に痛感し、今回は子宮に直接語りかける〜まるでラッセンのイルカ達と泳ぐラマーズ方出産〜 的な文体で皆さま一人一人の脳でなく子宮に直接語りかけて参ります。さあ!まずは皆んなで輪になって手を組みましょう!

思えば以前からずっとpunpeeの作る曲が全くピンときていなかったが、深夜の告白やローラ殺人事件過去を逃れてなどアメリカの赤狩り前のB級ノワールを鬱気分に任せて幾つもぼんやり見直してからトリュフォーのピアニストを久しぶりに見直すと以前駄作だと思っていたこの作品は「この映画を見ないで、映画史を語らないでいただきたいっ!上海蟹食べたいハニーと蟹道楽に行きたいっ!おすぎ花粉ですっ!」と思わずDVDを観ながら叫んでしまうほどの名作なのである。

この作品の何が凄いのか?前半1時間くらい ダラダラと無意味に長い駄作と思っていたものがラスト30分で劇的にひっくり返り、そのラストの余韻に浸りきったまま2度目の前半1時間をみると、ダラダラした話だと思っていた前半の全てのカットが宝石のようにキラキラ沁みてくる。つまり、今まで好きになれなかった2000年以降のアーバンなhiphopサウンドがこういう感じの、今までのゴツゴツしてミニマルでソリッドな90年代のアメリカのhiphopのような50年代フィルムノワールを全消化して、punpeeに代表されるような2010年以降のジャジーシティポップみたいなアーバンhiphopのような初期のトリュフォー作品のような複雑なゆるい感じに抜けてきてるんやなぁー。と僕は今年2025年になって、初めて2010年代のジャパニーズhiphop時代に追いついた感じがあって良かったです。

ビッグコンボを観ていてスパイクリーのモーベターブルースを思い出したり、深夜の告白を観てヘルレイザーを思い出したり、バーバラスタウィンウィックがウォンカーウォイの天使の涙やリンチのロストハイウェイに被ったり、エドワードGロビンソンが飾り窓の女の記憶にダブったりグッドフェローズのショーペシの地縛霊が憑依したかのように同じ身振り手振りで話したりしているうちに、OJシンプソン事件とロスの山火事がマルホランドドライブとかロストハイウェイ化したりするのと同様に、この「ピアニストを撃て」を観ながら、この作品は2pacのjuiceと一緒やん!みたいになりながら、画面がふと、サシャギドリっぽかったりする事に同時に気付かされる事の面白さもあると思う。

そんな意味では、今だによくわからない2000年代の邦楽サウンドはべナルトベルトリッチ的な進化の流れなのかな?と少し思いました。

確かに2000年代のセレブ感というのは、ドミニクサンダとかジョンローンとか本木雅弘とか吉川浩司的なベルトリッチお気に入り俳優の80年代的な正統派の力強くさと上品さがあり、僕みたいなモテなくて捻くれた70年代ジャズ喫茶に被れているような90年代の青年だったものには、あまり親しみのわかない種類の正統派な瑞々しさやフレッシュさがありましたね。

あれも最初はミケランジェロアントニオーニとか黄金の7人とか割とイタリア映画のヒッピー時代のドロドロした感じのイタロハウス的なものが時代と共に抜けていって血液のサラサラした感じになっていったのだろうか?確かに、僕はラリーレヴァンとかマニアックな音にアクセントが過剰についているものの方が認識できて、もっとアクセントの繋ぎ目がゴツゴツしないように綺麗に工夫されたものだと洗練度が高すぎて耳にひっかかりが薄く感じて、「洗練された感じなのにベタっとした感じに聞こえる。それなのに、ベタっとしたアクセントがどこにも無くて気持ち悪い。これは俺を騙そうとしている!=詐欺師だ!」みたいな事に違和感を感じていた為に2000年から2010年くらいの間 ずっと流行っていた音楽。というよりも、米津玄氏とか藤井風とかbadhopとかYOASOBIとか舐めダルマ。今に至るまで同じようなよくわからない電子音的なものとして聞こえてしまっている。ような気も致します。なんとなくだけど、kpop嫌いの人も音のアクセントとかリズムの掴み方がよくわからないゆえに拒否反応が出てるのかな?そういう人の好きなサウンドはだいたいわかりやすい部分に音のアクセントがあり、わかりやすくゴツゴツしている。みたいな感じもします。
確かにゴツゴツした音や映像や政治ゴシップの方が、僕もがっつり飯食えた満足感があるし、その満足感が飽きるレベルに達するにはゲロ吐くほど同じような味を無理矢理食い続けないとわかんない部分あるんだけと、ゲロ吐くほど同じような安い広告に毒された場当たり的な健康法に過剰に反応してめちゃくちゃなマニアックな安い食生活続けていると、他人を攻撃しまくってギラギラし続けてある日いきなり病気になって萎んでいくんやろうなぁ。むしろ、どうせなら全く味の見分けつかない程 頑丈で鈍感で それゆえに全く人に腹もたたない奴の方が結果的に食生活のえり好みもなく結果的にミニマルで合理的で多数派で安全な食生活になって長生きする場合もあんのかな?と思ったり。

偉大な作家生活には病院生活が必要だ

中原昌也の新著を読んでいて、ビッグコンボをノワールの傑作。と評していたので1万2千円は高いな。と思いつつ、正月むしゃくしゃしていたので買ってしまった。こんな事を繰り返して、実人生はどんどん悲惨な方向に向かっているが、悲惨な人生にイライラしてDVDを購入し身体の具合が悪いのを忘れるほど良い作品に会うとまた購入してしまう。

そんな話はさておき、届いたDVDを観てみると画質が悪くて一気にイラッときた。我慢して最後まで観たが画質が悪い。

それで寝る前に、少し離れた場所から(ちょうど映画館の一番後ろの両端の席)TV画面を観てみると、不鮮明にみえていた俳優の顔よりも、むしろ画面構成の一部として俳優の顔がある事に気付き、そうしてみるとこの映画の一コマ一コマの機能美。俳優の顔も機械の歯車の一部。みたいな事に気付かされた。これと同じ手法がスパイクリーのモーベターブルースだ。

それで画質の悪い5〜600円のフィルムノワールばかりを幾つか買い漁って平日寝る前に少し観ているけど、とても楽しい。そして中原昌也氏による「この時代のノワールは僕も大変好きだが、この時代の機能美的なノワールを現代の最先端の技術を駆使して表現する映画作家に映画の未来はない。と感じる。」みたいな文章の意味が、初めてなんとなく腑に落ちる部分があった。

懐古趣味に溺れて、静かに死んでいく。イメージに酔いながら、この手の似たりよたったりな話を毎晩とっかえひっかえ見続ける。要するに、恋に恋している自分に酔う。みたいな感じで、爺いになっている自分に酔う。みたいな人間として駄目な愉しさがノワールの魅力だから、毎回 画素数が悪いのも不満だし、テンションが上がってくると高画質の映像が観たくなるけど、そこも含めて、わざと最安値のロークオリティな画質の絵を見続けるのも退廃の味なのかな?と思ったりもした。だからこそ、この時代の映画は、酷い画素数でも耐えられるほど画面構成や台詞のタイミングをかなり高い品質で作っている。