映画の話

映画 覚え書き

濡れた逢引

猫も具合悪いし先週の東映祭りで映画を観る習慣を断とうと思いつつ、我慢できずに一本だけ観てしまった。昨夜 イライラが酷すぎてfunkadelicのマゴットブレインを久しぶりにきいてみて初めてサイケミュージックの奥行きに触れたような気がして少しだけ興奮した。ラリーレヴァンに続いていくのだ
それに比べるとただただ気がぬけた映画で、それに反比例して加賀まりこが鬱陶しいくらい性格が悪く、メスだった。後ぼっけえきょうていの予告編を思い出したくらいに、加賀まりこの顔と身体のバランスとか影の当て方とか梅図かずおのオロチとか洗礼っぽい終始 怪奇風味の画面のコメディ?でもあった。
そんな感じでサイケで気がぬけている。秋津温泉をティムバートンがゴダールっぽく編集したら、ラリークラークになった。みたいな「つまらない。」と断言できない良さがあったし、そこまでテンションが上がらず一本で帰れる感じもいい。
桜京美が秋津温泉の岡田茉莉子に、加賀まりこが女体の浅丘ルリ子や牝犬の緑魔子に、寄せにいってるようなパロディとしてふざけにいってるような微妙にふらふらしたバランスに揺れながら2つの映画が交錯していく。

最期が吉田喜重のろくでなしや神代辰巳の青春の蹉跌っぽい絵に収束する感じも良かった、

この作品で、浅丘ルリ子緑魔子がいまひとつキャラ化出来ていなかった性格の陰湿なメンヘラ童顔の婆さん顔の人形美少女風=ゴス加賀まりこがカタチにしている事に衝撃を受けた。加賀まりこ=表情を含め性格をできる限り悪くする。という役作りに妥協はない。NO friend。NO exeques。NO!

そういう意味で、緑魔子のゴスの意味もわかってきて、サイケという意味では緑魔子の調整ぶりが、いかにも東映らしくさりげなく完成されていたのに初めて気づくし増村保造の盲獣も良かった、先駆者としての浅丘ルリ子の迷走に見えた演技遍歴がめちゃくちゃぶっとんでいた事に気づく。
最期にきたサイケ女優が大原麗子だ。大原麗子まで来た時に、サイケやゴス以前の時代の若尾文子岡田茉莉子の正統派ゴス美少女ぶりに驚かされるけども、この時代の女優さんは芸者ものとかの若手とか子役で出演されているので芸者や赤線ものの中に新人類みたいな感じで古い旦那衆の義理人情や人身売買みたいなビジネスモデルに日本の古い業界を壊す病原体ゴスが持ち込まれて壊れはじめる感じも東映のホスト梅宮辰夫シリーズに持ち込まれる病原体の感じとダブる。夜の手配師緑魔子大原麗子の対比は、成瀬の浮雲高峰秀子岡田茉莉子の対比や祇園囃子の木暮千恵子と若尾文子や小津の浮草の京マチ子若尾文子の対比になる。また、木暮千恵子の雪夫人絵図の見えていないカットが岡田茉莉子の秋津温泉になるし、秋津温泉の見えてないカットが濡れた逢引。みたいに入れ子にしてレイヤーを重ねてみたり、同じ木下恵介のわが恋せし乙女の村祭りのシーンもこの映画の冒頭の村祭りのシーンとイメージがダブり、かつ この2作品が村祭りの三角関係から真逆の展開に突き進んでゆく。(この効果は、例えばビギーのbig poppaを聴いていて、この曲が流行っていた当時の事を思いだした時に、流行っていた当時は全く世代ではなくて知らなかったアイズレーブラザーズまで記憶のフレーズに繋がっていく。といったような回想シーンに外付けハードディスクが増築されている感じの面白さに近い)このような新人類vs旧という対比とは別に木下恵介を軸に、カルメン故郷に帰る高峰秀子と夜の手配師大原麗子のスターが演じる田舎っぺ大将の対比。そこに今年の春の田村正和とこの映画の加賀まりこ木下恵介メソッド?ありのままのアメリカンニューシネマの系譜が混ざった時、小津の浮草もポールニューマンのハリーアンドサンとかアメリカンニューシネマ的だったな。と思う。

話を加賀まりこに戻すと、木下恵介の死闘の伝説の加賀まりこが一番綺麗だった。岩下志麻との共演なのだが、姉役の岩下志麻とトーンが合っている妹役の加賀まりこ。ここでは従来のゴスの加賀まりこではなくアメリカンニューシネマの加賀まりこを堪能できるのだが、ここで何がジェーンに起こったか?のベディデイビス加賀まりこの演技や表情の方向性の酷似に気がついた。