映画の話

映画 覚え書き

猫とカナリヤ

どんだけ つまんない無理栗な映画なんだよ?と思ったが、解説を読むと美術が素晴らしい。と書いてある。確かに、一枚一枚名画を鑑賞するように見てみよう。なども試みたが、今ひとつ画面にのめりこめなかった。役者達の顔のつくりこみ方は確かに少し気にはなったが画面を集中して観続ける事に限界があった。
最初から最後まで、何も無いセットで演技だけでお化け屋敷相続ムービーを作る滑稽さ。最初から最後まで、フリだけで物語の中の時間軸はいっさい進行していない。そんな不気味さだ。それで、今までつまらない映画だな。と思っていたブランドンクロネンバーグのアンチヴァイラルも時間軸の止まったままの物語の不快感を楽しむ映画だった。そこに気づかず不快感だけがずっと残り続けていた。この系譜は、ブニュエルの皆殺しの天使もそうだろう、
結局、犬神家の一族とコンセプト自体は同じだが、時間軸の喪失という事で言うと大島映画だし、あれは未だ見れていない儀式のオマージュかも知れないし、この映画のオマージュで同じ市川崑という話なら、青春怪談のが傑作だった。中平康の誘惑も良かったし、川島雄三の風船も良かった。コメディとホラーのバランスという事で言えば芦川いづみ三橋達也。ふと気づけば、ここまでドイツ表現主義特集にこだわってダルい古典に拘泥しブランドンクロネンバーグを無理矢理再評価しなくても、過去に時間を忘れるような素晴らしい邦画リメイクをたくさん観てきた。結局、ブランドンクロネンバーグも先週の爆笑問題カーボーイのオープニングトークも古典の再評価に繋がらない駄目なオマージュと言えるだろう。と思いつつ、ブランドンクロネンバーグも太田光パウルレニから犬神家までの新しい可能性ー面白くない永遠の日常を生きる事こそ、より本気のホラーと政治体制への新しい可能性なのだ。
そんな意味で今週のサンドイッチマンの大腸ポリープの話は、太田光犬神家の一族思考からすると駄目なオープニングトークだろう。何故なら大爆笑してしまったからだ。と、すると大爆笑してしまうとこの手の笑いのコンセプトは壊れてしまう訳で気怠い倦怠感こそドイツ表現主義の最重要テーマなのだが、もしそうだとすれば何のためにお笑いのラジオを聴いているのか?笑いの為では無かったのか?新しい政治体制の監視下にあるという事を認識する為にお笑いを見ているのか?馬鹿野郎ーー!といった訳で朝まで生TVの大島渚監督が憑依したところで、来週の爆笑問題カーボーイのオープニングトークはどうなるのか?もちろん、これも絞死刑のオマージュだが、この映画も時間がとれず見れなかった。結局、まとめるとドイツ表現主義的笑いで言えばサンドイッチマンの方が爆笑問題より面白かった。ただ、太田さんの「お前ら犬神家をキチンと見たんか?」と問われているのであれば、僕は戦場のメリークリスマスしか覚えていない。バブル全盛期 お茶の間で何度もTVで再放送された犬神家の一族であったが僕は気持ち悪くて途中で番組を変えていた。あの映画が気持ち悪くて吉田喜重成瀬巳喜男特集を見るまで20年くらい女優 岡田茉莉子も封印してしまっていた。犬神家自体はジョルジュフランジュをみた時に気持ち悪い事に対する旨みを発見した。とすると、気持ち悪さというキーワードでドイツやイタリア、日本とフランスは繋がっているのか?日独伊三国軍事同盟によるフランス ホラーコメディミュージカル映画への干渉。ゴダールの足音が聞こえてくる。しかし、そう考えると、ナインティナインタカトシがゲストの回の矢部の「はっきり言わして貰うわ。相方のジョーク仕事だから笑ってるのよ。」という発言も蘇ってくる。もし田中さんが太田さんの話に相槌をうたなくなってしまったらどうなってしまうのだろう?さらに言えば太田さん自体が「馬鹿相手に話すんのやめP〜」となってしまうとどうなるのか?そこで初めて自分自身が現在置かれているアメリカ主導の政治体制下における自分の社会的立場というものも見えてくる。もはや、お笑いどころではないのである。

そういえば、爆笑問題カーボーイのオープニングトークの不快感も体感的な時間軸の喪失だった。ずっとギャグの質だと思っていた。ギャグの均一性による時間軸の消失っぽい。これも無意味な憶測。時間軸の喪失に繋がる