映画の話

映画 覚え書き

拳銃を売る男

光と影の進行方向が交錯しすれ違う。逆わらしべ長者的なネオリアリズモノワール。ジュースの元ネタ。

 

今回この映画を観て、ヴェンダースがジョセフロージの影響下にある事に気付いたし、アメリカの友人からパリテキサスまで撮っていき、事の次第で表現の焦点さえ消失してしまった感じだ。その流れはフェリーニの道→甘い生活→81/2と平行している。蓮實先生の言う、ヴェンダース=ポルノの意味がなんとなくわかる。アダルトビデオに社会風刺や道徳の善悪など問うのはおかしいのと一緒でヴェンダースはニュースという素材を使って社会モラルというポルノを撮っている。だから、なんとなく意図がみえず不快な作品もあったが、ポルノに政治的な意図はないスポーツというか格闘技観戦の性的、虚楽的一面なのだ。と書くと村上龍の愛と幻想のファシズムっぽいが、もちろんこの話はゲッペルズとラングの実話が下地にある。

 

そう考えると共に亡命組のジョセフロージとフイリッツラングがMという映画で繋がる。昔ロージのMを観た時はあまりに無意味なリメイクにも思えた。ラングのMも怪人マブゼ博士を観るまで分からなかった。ロッセリーニヴィスコンティがポルノから意識的に遠ざかり宗教に目覚めはじめ、それが最終的にダリオアルジェントやルチオフルチのホラーに行く流れも不思議で面白い。

撮影は美女と野獣。や、ことの次第のアンリアルカン。結局、この三本に共通するコミック雑誌なんか要らない。的なテーマの撮り方が、パリテキサスや地獄の黙示録にも似ている。そのようなネオリアリズモ的観点からたけしや候孝賢を見直すと、ネオリアリズモ的手法を取りながら、自分の軸が流れていない監督の芯の強さに驚く。

 

とにかく、この映画で色々な関係性が繋がったので僕にとっては映画史的に重要な作品だった。

伊集院さんにラジオで遊んでいただいたおかげでネオリアリズモの手法がだいぶ理解できた。たぶん、行き当たりばったり街に出て撮影し、その絵を観ながら適当に連想しながら話を作っていっても街のイメージから自分の潜在的に抑圧された政治的な主張やそれを打ち消す為の広告情報にどっぷり浸かる自分最終的に勝手に浮かび上がってしまう事だろう。そこを反省し始めた時にもっと宗教的な作品に変化していく気がする。

そうした意味でマフィヤやベトナム戦争を自身のパロディ映画作品の中にとりこみ、自分自身も破産寸前まで追い込まれたコッポラが事の次第でヴェンダースにプロデューサーとして説教しているシーンの意味も頷ける。

ヴェンダースと小津の繋がりは結局は希薄な感じがした。単にフィッツカルドがアメリカを描写する事でドイツ的な西武劇が出来た事の真似をしてみて何が出てくるのか?実験している気がする。東京画もパーフェクトデイズも見ていないが。結局、事の次第がつまらなかったのがいけない。あれで追いかけて観る気が失せてしまった。しかし、冒頭部分の映画内映画は出色だった。強いて言えば、小津も画面によってはめちゃくちゃダークだ