映画の話

映画 覚え書き

ツゴイネルワイゼン

陽炎座を観た時、なんかマザコン映画だし、清順観たのにスカっとしない。みたいな感じで、もう一本今日観てしまった。こちらは、前回よりもより濃厚に死を暗示する内容で観るんではなかったなぁ。と思いつつ傑作だった。しかし、映像のみで言えば陽炎座の方が凄い絵の枚数は多かった気もする

清水宏の按摩と女や内田百間という概念を映像化という意図からそれて久彌十蘭だったりもしたが、江戸川乱歩的なところもあったし、要するに江戸川乱歩は昭和だが、大正時代の雰囲気をわかりやすく昭和世代の人に紹介したのが乱歩だったのかも知れないし、我々の世代に大正時代の雰囲気を紹介していた作家は筒井康隆だったのかも知れないが、実際に大正時代の雰囲気を知る清順の平家物語オブセッション=太宰の津軽なのかも知れない。我々世代もbudda brandという90年代概念を映画化して後の世代に伝えていく。みたいな文學的映像作家がでてきても良いのかな?と思いながら、そういう文學的側面をkohnがラップでやっているのは面白いな。と思った。要するに古事記を口頭で伝承していた語り部諸星大二郎暗黒神話みたいな世界観に聞こえて大変衝撃を受けた。以前、村上龍忌野清志郎がゲストの時に初めてラジオで清志郎を聞いた時の衝撃を興奮して色々話しかけてキョトンとされていたり、田原総一郎村上龍の文庫のあとがきで村上龍がどれだけ自分達の世代においてアイドル的存在なのか?みたいな、下の世代からするとおかしな熱に浮かされた老人のように見える感じがあった

 

清順の青い乳房池袋北口のガード下で小林旭がナンパするシーンを撮っていたように、池袋の土地の持つ70年代ヒッピータウンとしての雰囲気が80年代に完全に朽ち果て若者の街は渋谷や原宿に移り、90年代後期から00年代にギャングやhiphopタウンとして復活していた(僕はその頃社会人になりたてで会社で深夜残業を繰り返しこの街の事など何も知りませんでしたが)。結局は、自分が産まれる前のこの街のサイケな伝統などがあり、社会人になってからはhiphopサイケな街に変化していった流れ。その青春時代前と青春時代後のムーブメントの記憶を何も知らずにバイトの先輩や海の家や同級生の兄貴やいとこなどの薄いコネを頼りに海外でサイケにハマっていた時期が、今 新文芸坐鈴木清順祭りで僕は一本の線で繋がった。神田伯山先生や太田光など過去 この映画館で暗い青春時代にサイケの洗練を受けた芸人さんの頭の片隅にあるサイケ観や清順感などに思いをはせると同時に、このkohnの話もこの映画のサラサーテの盤の話に繋がっているのだが、

 

もう一つ言えばこの映画自体がフイリッツラングのマブゼ博士やJGクルーゾーの情婦マノンなど古いドイツ表現主義的な怪奇恋愛映画のオマージュになっているし、五所平之助の日本オリジナルの怪奇風味メロドラマに比べると少し洋風かぶれな安っぽさがあるのも否めないが、そういう安っぽいさ。こそ、まさにドイツ表現主義。という感じもした。ヒッチコック(ヒッチコックと言えばマジカルラブリーの野田が村上にボケの無茶ぶりを強要するところ。あれがまさにヒッチコックだ。そういう意味では松ちゃんは江戸川乱歩なのだが。松ちゃんはボケを強要しない。ただ浜ちゃんがケツを蹴るだけ。要するに江戸川乱歩の火星の運河のヒッチコック論で書いてある通りドフトエフスキーのスリラーの仕組みというのは、キリスト教の背神行為とかけているので、よりゾクゾクする仕掛けになっている。そういう意味で淀川さんのヒッチコックとJGクルーゾーのスリラーの対比。僕は言葉で説明出来ないが、確かに同じ背神行為だがJGクルーゾーの罰はヒッチコックの罰と違う気がする)の汚名(ノトーリアス。funkin tonightの歌詞の冒頭のX(罰)つながりで。ノトーリアスと言えばビギーのbig poppaが青春時代大ヒットしたが最近よくびといんざシーツをラジオで流れるとグッとくる。もちろんこの話も内田百間サラサーテの盤の話つながりだ)とシュミットのヘカテの冒頭を見比べた時の本物の偽物(スパイ)になる洗礼を受けるシーンと、めちゃくちゃ金をかけてゴージャスな安っぽさの演出をしてるシーンの対比。としての蓮實先生の指摘するところの人工の風に髪がたなびく(我々世代でいうとビダルサスーン)シーンである