映画の話

映画 覚え書き

おかしなやつ

まるでオードリー若林が、芸人ジミー大西の素顔を演じる自伝的映画。みたいなチグハグさ。芸人が別の芸人を演じる虚構の不気味さがあり、そこで演じられているジミー大西の姿が普段の自分の鈍臭い人生がもし芸人として間違って成功していたら?みたいな2重3重の重苦しい不気味さと闘う鑑賞している自分の自我とその妄想を払いのけて赤メダカみたいな他人事の話として努めて軽く流して見ようとしている自分があった。

 

ここでの三田佳子のパンパンが完全な松田聖子とか中山美穂みたいな往年のスーパーアイドルの原型になっている事にも驚いた。

 

渥美清が伝説の落語家 3代目三遊亭歌笑を演じているのだが、本人を知らないのでどこまで、この人の若い頃がこの映画のような鈍臭い頑固なイモだったのかわからず自分の日々の生活を見せられているような不快感とそれを渥美清みたいな本来はとっぽい人間が演じている2重のずれによる不信感と。南田洋子三田佳子の鼻にかかったような柔らかい日本語の発音と綺麗さーいつもの東映システムーに心を奪われた。渥美清の動きが山藤章二のブラックアングルのイラストみたいな、まるで筆ペンで書いたような流れるような動きなのがとても良かったし、佐藤慶田中邦衛もそれにトーンを合わせた柔らかい動きをしていて、とても東映っぽかった。

今週のオードリーのラジオの若林と田中さんの喧嘩とこの映画の喧嘩のシーンがちょうど被っていた為に、いつもながらのオードリーのなるべく自然な感じの運動部っぽい明るさとか言葉やリスナーの鬱屈した感情を代弁しストレスなく聞き取れるような間に比べて、東映のあまりにも過不足なく1mmも狂いない遊びのない控えめで完全なジャックナイフのような「らしさ」の演出が芸人話でもヤクザ映画でもサラリーマン社会の話でも、まるで小市民のケチケチした日々の揉め事や貧しい中の小さな暖かみが虚構のシャボン玉でできた宝石のような美しさに満ちて時にゾッとするような冷たい刺すような雰囲気を醸し出しているんだな。と思った。

それを象徴するのが、兄弟子 佐藤慶のすっと消えるようにお洒落に自殺するシーンやパンパンに落ちぶれた三田佳子に再会するシーンの松田聖子ぶりだ。