映画の話

映画 覚え書き

人生劇場 飛車角と吉良常

藤純子と逃げている鶴田浩司が、恐喝の三田圭子を恐喝して逃げる高倉健の幻影のように見えながら、実際に映画の後半で高倉健藤純子が駆け落ちしそうになる。(その時にお供の手下が若い頃の山城慎吾なのだが、この山城慎吾が被っている帽子が故 上島竜平がよく被っていたハンチングに似ている事で、まるで山城慎吾が上島竜平の亡霊を演じているような気分になる。)暴力団での鶴田浩司と梅宮辰夫の時と同様に、鶴田浩司は常に主役でありながら先に殺される手下の脇役の影なのだ。
また全ての画面がオールウェイズ3丁目の夕日のようにわざとらしいぼけた美術や映像が、実は薄れゆく記憶。ノスタルジーそのものなのだと。だから、ヤクザ同士の土砂降りの雨のなかでの抗争シーンも、まるでジメジメした大岩をひっくり返した時に見る大量の蟻や団子虫が、実は虫達の中では伝説の関ヶ原の闘いをしていた。しかし、人間達にとっては知る由もなく。みたいなサイケバロックのようなトリッピーで不鮮明ではっきりしない映像なのだが、これはエドワードヤンのクーリンチュー殺人事件の土砂降りの雨の中の学生ヤクザの青龍刀を振り回す抗争シーンの秋の野原の鈴虫感に繋がっていく。そして、そのうちに気がつく。多くの内田吐夢作品は、ノスタルジーにして、そのノスタルジーは初期の警察官のサイレント時代の傑作のセルフオマージュであり、さらに警察官での警察から逃げる思想犯の原型は、実際に内田吐夢の友人の満洲国のフィクサー甘粕中尉ではなかったのか?と

ああ、何もかも夢のようで、まさに東映だ!何本でも観たくなるし、見るたびに空虚さと美しさの概念は新しい華として泥の記憶の上に開き、前の記憶は概念の蓮の池に上書きされ記憶という沼の底に散って沈んでゆく...ように見えて、全ての過去の高倉健や鶴田浩司の東映作品の名場面がフラッシュバックして恍惚となってしまっていた上に、骨組みは初期 内田吐夢の警察官の原点回帰に何度も無限ループする。と思いながら、恋なすや恋。みたいな和のイタリアンホラー的なドロっとした平安絵巻的作品の不思議さを思い出したりする。
実際に政治の裏側と深く関わっていた内田吐夢作品には、独特の泥々した濃厚なホラー風味とジョンウーの男達の挽歌のような中国映画特有の死を意識した政治犯の熱い友情ドラマがある。